『すみれ』青山七恵さん 文春文庫。
あらすじ:15歳のわたし(藍子ちゃん)の家に突然やってきて、一緒に住むことになった37歳のレミちゃん。むかし作家を目指していたレミちゃんには「普通の人と違う」ところがあった…。
季節のうつりかわりとともに描かれる人と人のきずな、人間のみにくさと美しさ。そして涙がおさえられない最期が待ち受ける。
とてもせつないお話でした。
どうする事が正しかったのか私には分かりませんがきっとこれで良かったのだと思います。
これを読んで昔の事を思い出しました。
「普通の人と違う人」私も過去に二人出会った事がありますがどちらとも藍子ちゃんの様に優しく接する事ができませんでした。
一人は叔父だったのですが、家出をして実家に数日居候した事がありました。それに対してどうして実の家族がいるのに私たちが優しくしないといけないの?と思ってしまったのです。
(叔父はアル中で目が覚めたと同時にお酒を飲み祖母に心配をかけるところや常に家が酒臭く風紀を乱すところ。そして、父のいない私には大人の男性が家で寝泊まりすること自体が許せませんでした。)
何より藍子ちゃんがレミちゃんに対して感じたように大の大人が「普通でない」状態にいること自体がが甘えだと思ったいたのです。
それをそのまま本人にぶつけてしまったこともあります。叔父は一度だけそんな私に「色々と言いたいことがあるけれど俺の口からは言えない」と言っていましたが、何を言いたかったのか今となっては分かりません。(何年も前に肝硬変で亡くなりました)
それ以来、叔父は我が家に泊まることはありませんでしたが、家族が出て行き一人だったことから祖母が面倒をみる状態だった為に入院をすれば祖母を連れてお見舞いに行ったり、車での買い出しが必要な時には車を出したりと色々と関わりを持つことになりました。(子供が3人いても誰もいつかなかったのです。)
これも叔父の為ではなく祖母の為でした。
困った人には優しくしなければいけない。
救いの手を差しのべるべき。だとは思います。でも、それは誰がどこまでしたらいいのでしょうか?
凄く難しい問題だと思います。
私は今でも叔父に対してきっと優しくはできないと思います。救い(立ち直るまで皆が優しく手を差しのべるレベル)は努力している人に与えられるべきだと思うからです。
ですが、生きる気力がない人に努力を求めるのも酷だとも思います…。
だから、困っている人も自分勝手に生きている場合は、助ける側もそれでいいのではないかと結論づけることにします。
(助ける余力がある人。助けたい人が支えたいように支えればいい。)
ハッピーエンドが理想だけれどそうならなかったとしても誰も責めを追う必要はない。そう思います。
でも、この考えが正しいとは思えないししっくりきません。納得できる答えを探したいと思います。